半跏趺坐 -hankafuza-

ソウルジェムの濁りきったアラサー第二童貞がココロの平穏を目指す話

引越し直前に改めて

自分の習性に気がつく部分は大きい。


あまりにも梱包した段ボール箱が多く、一人暮らしにも関わらず間も無く30を超える勢いなのである。

いったいこの異常な現象はどこから来るのかと自己分析を始めてしまった末に、それは至った結論。


それは、ありとあらゆることを自己完結しようと無意識に生きてるからか、とにかく身の回りに道具が多いということだ。



鉄製の工具箱にはドライバーレンチペンチの類いがしっかりぎっしり。


それとは別でプラモデルのツールボックスもトースター程度の大きさ。

他にもノコギリ等の木工用具(カンナまである、使い方は知らん)。


料理道具はフライパンは2種類、鍋は6種類、ボールざる複数種。


ノンアルコールのホットドリンクに関しては独壇場。

日本茶紅茶中国茶に、どくだみ茶杜仲茶明日葉茶。


コーヒーこそとんでもない、それに関しては焙煎から抽出、カップに至るまでのあらゆる工程を再現表現するために集めた愛しき子どもたち、果たして段ボール4箱で収まっただろうか。


もしアルコール分解酵素が人並みの体質に生まれついていたならば、悲劇的にもウイスキーやリキュールのボトルが6、7本はキープしてあったことだろう。


もちろん本はある。たくさん。

そもそも読み切ることが少ない。

つまらないものは手が止まるし、面白いものは時間をかけて読むからだ。


CDが多いこともネックだと重々承知しているが、どうも本に関してもそうだがデータは信用していない。

あれは仮初めの状態に過ぎない。


データが吹っ飛んだ経験はあるだろうか。

あの、痕跡も残骸もなく、綺麗に最初からなかったかのように存在が消えた後の、心の持って行き場のなさ。


大切なものは手元にあってこそだとは思わないか。



ミニマリストに憧れたこともあるが、こうして疲労困憊しながら引越しの荷造りをしていて気がついた。


私はモノが好きなのだ。


ある意味、自分が気に入っているいないに関わらず、使用できる状態にあるものというのはいまだ可能性を秘めており、その選択肢や可能性に囲まれている、という状態にどこか精神的な安らぎを感じているのだ。


と、疲れからかこんな駄文を打っている場合ではない。

早く作業を終わらせないと引越し屋が来てしまうー