半跏趺坐 -hankafuza-

ソウルジェムの濁りきったアラサー第二童貞がココロの平穏を目指す話

間違えた人間の話

かつて成功したが、今は敗北者となった人

世間から後ろ指指された人

社会的に抹殺された人

犯罪に手を染めた人

 


彼らの「その後の人生」というものに

いま一番興味がある

 


人を傷つけ、法を犯して

良心の呵責や葛藤に苛まれ

後悔で眠れぬ夜を迎えても

 


もしくは、傍若無人に何食わぬ顔で過ごせたとしても

 


いのち尽きるまで、人生は続いていく

 


そして人は、間違える生き物であり

これは誰も避けては通れない宿命である

 


「もう二度としません」

「同じ過ちは犯さないと誓います」

 


誰に誓えるのか?

何に誓えるのか?

 


神にでも誓うのかい?

君の神はそんなに信用に値する存在かい?

 


聖書にだって書いてあるんだぜ

「誓ってはなりません」って

 


仏の顔も三度までなら大目に見てくれるらしいが

不寛容な現代、ただの一度だって失敗が許されない空気が充満している

 


謝って済む話ならたくさんある

 


キリストさんは、7度嘘をつかれても7度謝れば許してくれるらしい

 


壊れたら何度だって直して使うやり方が好きだ

ほつれたボタンを自分で縫い付けるだけで、さほど気に入っている訳でもないダッフルまがいの安物コートにも愛着が生まれる

 


もっとも、効率型消費社会においては使い捨てが一番手っ取り早い

 


でも、それを人間にも当てはめちまっていいんだろうか?

 


(できれば金輪際関わり合いになりたくないロクデナシも何人かいたから、ここで理想論の壁にぶつかる……)

 


人間に美しさがあるとすれば、その一つは「悔い改める力」だと思う

 


自らの過ちを認めた姿、表情は爽やかで、見る人の胸を打つ

それはいま生まれたばかりの赤ちゃんを見るようだ

 


その、一度膝をつけた地面から再び本人が自力で立ち上がろうとするとき、ほんの少し手を差し伸べる優しさがあれば

それが出来ないのなら、せめて遠くから黙って見守るくらいの我慢を周囲がしたっていいんじゃあないかと思うのです

 

最後に私の確信なのでもう一回言いますね

 

「人とは間違える生き物であり

これを誰も避けては通れない、宿命である」

引越し直前に改めて

自分の習性に気がつく部分は大きい。


あまりにも梱包した段ボール箱が多く、一人暮らしにも関わらず間も無く30を超える勢いなのである。

いったいこの異常な現象はどこから来るのかと自己分析を始めてしまった末に、それは至った結論。


それは、ありとあらゆることを自己完結しようと無意識に生きてるからか、とにかく身の回りに道具が多いということだ。



鉄製の工具箱にはドライバーレンチペンチの類いがしっかりぎっしり。


それとは別でプラモデルのツールボックスもトースター程度の大きさ。

他にもノコギリ等の木工用具(カンナまである、使い方は知らん)。


料理道具はフライパンは2種類、鍋は6種類、ボールざる複数種。


ノンアルコールのホットドリンクに関しては独壇場。

日本茶紅茶中国茶に、どくだみ茶杜仲茶明日葉茶。


コーヒーこそとんでもない、それに関しては焙煎から抽出、カップに至るまでのあらゆる工程を再現表現するために集めた愛しき子どもたち、果たして段ボール4箱で収まっただろうか。


もしアルコール分解酵素が人並みの体質に生まれついていたならば、悲劇的にもウイスキーやリキュールのボトルが6、7本はキープしてあったことだろう。


もちろん本はある。たくさん。

そもそも読み切ることが少ない。

つまらないものは手が止まるし、面白いものは時間をかけて読むからだ。


CDが多いこともネックだと重々承知しているが、どうも本に関してもそうだがデータは信用していない。

あれは仮初めの状態に過ぎない。


データが吹っ飛んだ経験はあるだろうか。

あの、痕跡も残骸もなく、綺麗に最初からなかったかのように存在が消えた後の、心の持って行き場のなさ。


大切なものは手元にあってこそだとは思わないか。



ミニマリストに憧れたこともあるが、こうして疲労困憊しながら引越しの荷造りをしていて気がついた。


私はモノが好きなのだ。


ある意味、自分が気に入っているいないに関わらず、使用できる状態にあるものというのはいまだ可能性を秘めており、その選択肢や可能性に囲まれている、という状態にどこか精神的な安らぎを感じているのだ。


と、疲れからかこんな駄文を打っている場合ではない。

早く作業を終わらせないと引越し屋が来てしまうー

試練/誘惑

最近では、白血病の罹患を発表した際の池江璃花子選手の発言としても記憶に新しい、

 

「神様は、乗り越えられない者には試練を与えない」という常套句。

 

これは上馬キリスト教会のtwitter上での解説で私も知り、驚いたことでもあるのだが、

試練というのは誤訳で、元々のラテン語では「誘惑」くらいの意味合いが適切だという。


苦難にあった人が自らを奮い立たせるのは勝手だが、

間違っても他人への励ましに使うのはやめてほしいと思う。

 

 

それは、本当につらいとき、以前の私もこう思っていたからだ。

 

「試練が、神が与えるものならば、わたしが苦しむことも神が望んだことなのですか?

 

それがあなたの御心だとしたら、あなたは本当に人の神なのですか?」

今朝見た夢

居酒屋のホールスタッフを途轍もなく久しぶりにしていた


気弱そうなおばさまが一人で店に現れた

当日来て、数名で宴会したいってのはいいんだが、いつまでもコースを決めてくれないからとりあえず席に案内だけした

板長にその日の刺盛りの魚を聞いて、その内容の違いで判断できるよう忙しい最中の調理場に声をかけたりしていた

 

それでもいつの間にか時間は過ぎて、それでもお客がいつまでも揃わなかったりするので、他の客を案内しながらやきもきしていた

 

気がついたら揃った、と思ったら内2名だけ「焼酎水割りセット!」って、飲み放題は全員分お代発生しますよ、そもそもいま昼の12時回ったところなのに君らボトル一本二人で空ける気かいということを一度注文を受けてから確認しに行かなければと店内の角で悶々としていた

 

あと仕事中にメガネをどこかに置いたままにしたのか、なくしてしまった

ただの近視だから見えるには見えるんだけど、普段メガネキャラで通している手前それが恥ずかしく、客席のあちこちに置いてあるメガネの中から自分のものをさりげなく見つけだそうと焦っていた

雑感雑記

一度でも心に受け入れた人を引き剥がすことは

自ら指の爪を引き剥がすが如く

受け入れがたい痛みを伴う

そういったら

重すぎると苦笑されるのだろうか

 

 

 

・・

自分や周囲を

昨日より少しでもマシにしようとする

些細な心がけ

そんなものが

神も仏も不在の世界で

最後に自分を救ってくれる

 

日常生活こそ宗教だという仮説

 

 

 

・・・

Plaisir d'amour ne dure qu'un moment ;
Chagrin d'amour dure toute la vie.

 

愛の喜び  それは一瞬の輝き
愛の苦しみ  それは一生の痛み

 

ーJean-Pierre Claris de Florian(1755-1794)

“Plaisir d'amor(愛の喜び)”

 

 

 

・・・・

目に入る光景を

痛みとともに刻まれた記憶と

0.001秒の瞬間で結びつけたがるのは

忌むべきエラーだから

全て無視する

 


無視する 無視する 無視する 無視する

無視 無視 無視 無視 無視 無視 無視 無視

 

 

 

・・・・

いついかなるときでも

葛藤がある

 

休日に出かけたい

一方、どこにも行きたくないだとか

 

やっておくべき勉強があり、すでにリストアップ済みであるが

何一つとしてやる気がないだとか

 

あの人に声をかけたほうがいい

一方、黙っていたいとか

 

これを突破できる要素こそ

決断なのだろう

 

それを人はどこで身につけるのか

 

もしくは

最初から選択肢などなければ

可能性を前に戸惑う必要もない

贅沢さをかなぐり捨てられたのならよかった

 

ただただ人の一生が

決められた労働と生活で回転し

やがて老いて動けなくなり

命を終える

そんなファンタジーでも構わなかった

 

 

 

・・・・・

「1年後の自分はどうなっていますか?」という問いかけがあった

こういう類の質問はいつも苦手だ

 

セックスがしたいわけじゃない

セックスだけがしたいわけじゃない

 

ただ、もし心も体も

場合によっては自分の全財産をも預けて構わないと思えるような

信頼できる女性が現れるなら

その人との行為中に腹上死できるなら

本望だろう

そんな猥褻なことを考えた

 

つまりはロマンスの果ての絶頂を夢見ている

盛りのついた女子中学生と脳内は一緒ということだ

 

自分という低俗な凡人が考えることなど

その程度でしかない

 

一年後も5年後も10年後も同じだ

夢を見れない将来なら 暗雲が立ち込めている

それ以上は何も考えたくない

嫌いな言葉

癒しがほしい

自分へのご褒美

自分磨き

さみしい

愛されたい

 

また今日も誰も待つ人のいない家に帰る

俺には一緒に飯を食ってくれる友だちすらいない

 

 

これらは全て虫唾が走る言葉だ

甘ったれが吐く戯言だ

 

 

しかし

嫌悪感を催す理由は

他ならぬ自分の中にも

これらの言葉が埋まっているからなのだろう

 

認めたくはないのだが

平らな床でつまづくよりも醜悪なそれは

そのアーティストの話をしたことがある

ならば、それを再生するとき

わたしの記憶は苦痛となる

 

うどんのこだわりを聞いたことがある

ならば、うどんを茹でるとき

私の記憶は苦痛となる

 

無糖の炭酸の話をしたことがある

ならば、無糖の炭酸を飲むとき

私の記憶は苦痛となる

 

白菜を凍らせて保存していたという

ならば、白菜を調理するとき

私の記憶は苦痛となる

 

 

返せなかった恩がある

優しさに報いれなかった

わたしの罪

 

嫌いになった人間が多すぎて

わたしは今も彼ら 彼女らと

縁を切ることができない

その憎しみの粘度ゆえに

唾液はセメント 乾いて固まり流れない

 

サンティアゴ・デ・コンポステーラ

贖罪と巡礼の道は続く